ごまだれ日記

プログラミングの技術メモとか

進撃の巨人のアニメが良かったのでポエム

※この記事は重大なネタバレを含みます。

この記事は以下の記事から分離したものです。

dhirabayashi.hatenablog.com

2023年秋、ついに進撃の巨人のアニメの完結編が放送されました。原作のほうは読んだことがないのですが、アニメは最初から最後まで視聴しました。

これが抜群に面白かったですね。1期はリアルタイムで視聴していましたが、なぜか2期以降は観ていませんでした。今年の秋に完結編が出ると知って、一通り観ようかと思ってまた1期から観ていきました。1日1話くらいでゆっくり観ていこうかと思っていたのですが、面白くて何話も続けて観てしまったので想定よりだいぶ早く最新話に追いついてしまい、完結編を待ち望む日々が長かったです…

そんなわけで、感想というかポエムのようなものを書き綴りたいと思います。

巨人の謎から始まり、様々な謎がどんどん生まれて、その謎が徐々に解き明かされていく。やっぱりそういうのは続きが気になって引き込まれます。でもそれだけではなく、いろいろと考えさせられる作品でもありました。

雰囲気勢なので最後まで観てもよく理解していない部分もあるのですが、それでも様々なことに思いを寄せました。この作品はとにかく人が死にます。それもモブではないキャラクターもけっこう呆気なく死ぬ。それに、進撃の巨人の場合は人の死に方が現実にありそうな残酷さを持っているように感じたのですよね。もちろん巨人自体は空想なのですが、「巨人」を「何らかの脅威」と抽象化して考えるとどうでしょう。たとえば侵略的意図を持った外国軍であったり、テロリストであったり、あるいは自然災害であったり。
「壁」によって一応の平和は保たれて、自分たちは完全に安全だと思っていた。しかし、「壁」は実際にはちょっと強いやつが突進するだけで穴が空くような代物であり…… すごく、現実的にありそうな話だと思いました。1

そうした脅威に対抗するために命を張る人たちがいます。作中でも現実でも。作中でも多くの人が死にます。トロスト区奪還作戦では、岩を運んでいて無防備になるエレンを守るために多くの兵士が犠牲となりましたし、女型の巨人を捕獲する作戦でも、ストヘス区内で兵士のみならず民間人までも死傷者が出ました。いずれの作戦も、作戦に失敗した結果そうなってしまったのではなく、最初からそうなることがわかった上で決行されました。ウォール・マリア奪還作戦においても、獣の巨人に対する、騎馬特攻の作戦がありました。無論、死にに行くようなものです。
団長のエルヴィンも指揮官として先陣を切って真っ先に死ななければなりませんでした。もうちょっとで知りたいことにたどり着けるというところまで来たのに、無念の死を遂げる必要があった。新兵にもそうさせるために「一流の詐欺師のように体のいい方便を並べ」ることで、若者たちを死に追いやらなければならなかった…

ある命を守るために、他の命が失われる。死ぬ役と、生きる役がいる。死ぬ役、あまりにも辛いけど時には必要な存在です。できれば生きる役のほうになりたいものだけど、死ぬ役が文字通り命を捨てて繋いでくれた命、彼らの犠牲を無駄にしないための覚悟は問われます。

ただ、その犠牲を無駄にはしない、と言いつつも結局のところ無駄だったんじゃないのか?と思わせてくるのがこの作品の恐ろしさと面白さだと思いました。作中ではエレンは基本的には生きる役でした。理由はもちろん、エレンの巨人化能力は調査兵団にとって不可欠な存在だったからです。エレンの力を消耗させないため、エレンを守るため、エレンを救出するため、多くの兵士が死にました。エレンは巨人の力を使って多くの戦績を上げましたが、しかしその後エレンは何をしたか。

エレンが地ならしを発動させたのは単純にとても悲しかったです。死体の山と引き換えに存続したエレンの命、エレンはその命を使ってそのようなことをするのかと。ナイーブな感想なのでしょうけど、そう感じました。そんな単純な話ではないだろうとは思いつつも。

この世から巨人を一匹残らず駆逐するというエレンの悲願は(エレンの思惑通りなのかそうでないのかよくわかっていないのですが)達成されたとも言えるわけなので、エレンを生かすために死ぬ役を演じた人の犠牲、地ならしによる犠牲も無駄ではなかったのではという解釈を試みたのですが、やはり犠牲が多すぎてなかなかそのように考えることができず。

まあ、長い目で見ればどちらであっても変わらないのかもしれません。巨人という脅威は去ったけど、結局その後も人類は争いを続けました。多くの犠牲のおかげで命を繋いだ人たちが殺し合う。多くの犠牲は、結局無駄だったのでしょうか…?

もっと言うと、仮に争いが完全になくなって平和な世界になったとしても、誰も死ななくなるわけではない。天寿を全うするのか、不慮の事故や病気で亡くなるのかわかりませんが、どのような理由にせよ最終的にはみんな死にます。次世代に命をつなぐことはできても、命を受け継いだその次世代もやはりそのうち死ぬ。ジークが言っていましたね。命の目的は増えることだけ。生きるということはいずれ死ぬということ。意味などあるのかと。

実は、私は幼い頃からずっと同じことを考えていました。増えたところで、増えたやつだって同様にそのうち死にます。死ぬ前に増えれば命のバトンを渡すことはできるけど、ゴールにたどり着くことはありません。ゴールのないリレー、ただの無限ループ。いったい何のために…?2

この辺りのジークとアルミンのやりとりが興味深いと思いました。ただ三人でかけっこをした。自分はそのために生まれてきたのではないかと。ただの些細なことだけど、嬉しい楽しいこと。それに対するジークの反応。キャッチボールをする。ただ投げて、捕って、また投げる。ただそれを繰り返す。何の意味もない。しかし、それでよかったのだと…

いろいろな解釈ができるかもしれないですが、いつか死ぬのだとしてもそれまでの過程でなにか楽しいこととか、嬉しいことがあるならそれでいいじゃないかと、これまたナイーブかもしれませんが私はそのように理解しました。別に些細なことでもいい。

命とは本質的には無意味なのでは思うことがあります。何らかの物理的現象によって偶発的に生じた何かがたまたま増える能力を有しており、その能力を行使してきた結果でしかないのではないかと。少なくとも、人智を超えた何かが意志をもって作ったものだとは、私は思っていません。ただ、仮に無意味なのだとしても、自分で意味を与えることはできそうです。よほど特殊な生い立ちでなければ、かもしれませんが、基本的には生きる理由など自分で勝手に決めていいものなのかなというところまで考えが膨らみました。

作中でも多くの人が死にましたし、同じような死に方をした人は現実世界にも多くいるでしょう。しかし、一見無駄にも思えるような死に方をした人であっても、生前、自分はこのために生まれてきたんだろうなと思えるなにかがあれば、また、その犠牲のおかげで生き延びた人にも同様の何かがあれば… それが彼らの魂の救済となることを願ってやみません。

そう考えていくと、たとえ多くの犠牲が出たのだとしても、誰かが生き残って、生き残った誰かが自分の命に何らかの意味を見出すことがあったなら、やっぱり無駄ではなかったとも言えるのでしょうか。多くの犠牲のもとに生き残った人たちが引き続き殺し合う、絶望的だけどそれでも希望はかすかに残る、むしろそのかすかな希望にフォーカスした話なのだろうかという気もしてきました。

ちょっとネガティブに見えることも書きましたが、むしろこういったことを考えることでより良い人生を歩むためのヒントが見つかるんじゃないかと思っています。考えるきっかけをくれた進撃の巨人、そしてその制作に関わった全ての人に感謝したいです。
進撃の巨人のような素晴らしいコンテンツに触れることができたのも自分が生きていたからですね。それに、言うまでもなく進撃の巨人とは人が作ったコンテンツです。なんだかんだ言っても、やはり人の営みとは尊い
自分も何かお返しができたらな、という気持ちにもなってきました。それが生きるということなのかも。

ちなみに、進撃の巨人で好きなキャラクターはハンジさんです。ハンジさんの最期で、調査兵団のみんなが号泣しているシーンで私も泣きました。


  1. 進撃の巨人も結局のところ人類同士の争いの話ですしねぇ
  2. もちろんただのループではなく、科学技術の発展などめざましい進歩を遂げています。今の自分は先人の努力によって多大なる恩恵を受けているわけなので、言い方には気をつける必要がありますね。本気で主張しているというより、思考実験のようなものだと思っていただけると。